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2013 年7 月13 日

宝塚市役所放火事件

 新聞報道によると、市税の督促や滞納処分等市役所の対応に不満の市民が火炎瓶やガソリンを投げ込んで放火したという。
日経新聞の記事によると、宝塚市役所の市税収納室長は「税の滞納を巡り、窓口で大声を上げる住民が数十人いる日もある」という。

この事件を、これまでの市職員や弁護士会の視点で見ると、危機管理のあり方や市税取立ての効果的で実効的なあり方の不足ということになるのだろう。もっと上手に対応していたなら、こういう事態は回避できたのに、というわけだ。

しかし、市民の視点からこの事件をみるとどうなるか。難しいのは、この場合、市民の視点といっても、複数に分かれる。
苦しいながらも市税は滞納せずに、また滞納しても頑張って分納している市民からは、支払わないといけないものなのに逆恨み・逆切れもいいところだと批判されるだろう。
他方、生活や資金繰りが苦しく市税を滞納している市民からは、よくやってくれたと拍手喝采する人もいるだろうか。

この問題の根底には、税金や役所・行政というものについての市民の認識・理解と、市職員の認識・理解のずれがあることに注意すべきだろう。
現行の法制度を所与の前提とすれば、市職員も市民も、法律でそう決まっているのだから、支払わなければならないし、滞納していたら督促しなければならないし、滞納処分もしなければならない。滞納している者が悪いのだから、また滞納しているのに督促も滞納処分もしなければ国からも市民からも文句を言われるから、仕方ない。火炎瓶を投げ込むなんて逆切れも甚だしい。
しかし、税金を何のためにを支払わなければならないのか。市民のために、目に見える、税金に見合うだけの行政サービスも受けていないのに、偉そうな態度をする職員の給料を支払うためにどうして税金を支払わなければならないのか。所得税や法人税なら、所得があるのだから、所得再分配のために税金を支払うのもまだ理解できようが、自分が汗水流して働いて買った不動産(固定資産)について、その固定資産の取得・維持に何ら市が協力してくれたわけでもないのに、どうして税金を支払わないといけないのか。人が通常お金を支払うのは財物の対価としてだ。税金も同じように行政サービスの対価と考えれば、このような理解も十分に成り立つだろう。ましてや、生活や資金繰りが苦しいからちょっとくらい待ってくれたっていいじゃないか。それを督促状を何回か送りつけてくるだけで、いきなり預金を差し押さえるというのはどういうことか。消費者金融だって、督促の内容証明郵便の次は裁判所からの支払督促や訴状が来るのであって、いきなり差押をしてくることはない。昔の取立てが厳しかったサラ金よりも悪質ではないか。
法律を所与の前提とすれば、これは税に対する誤った認識だが、そもそも論から考えれば、実にもっともな疑問である。

行政に必要なのは、そんなものは法律を勉強しろ、知らないやつが悪いという姿勢ではなく、税金とは何か、何に充てられるのか、どうして税金の徴収が必要なのか、をちゃんと市民が納得できるように説明することだ。それを言葉だけではなく、職員の態度・姿勢として示していくべきではないか。行政としての説明責任の不十分さ、市民との間のかけ違いが今回の悲劇の一因であることを肝に銘じるべきだろう。

投稿者:ゆかわat 18 :19 | ビジネス | コメント(0 )

死刑制度是か非か

昨夜は、依頼者の方々との暑気払いの楽しい一夜であった。
その際、話題が死刑制度論になった。
私自身は死刑制度反対だ。しかし、自分の最愛の身内を殺害された遺族の方に死刑反対と言えるのか、自分自身がそういう立場に立たされてもそういえるのか、そういう犯人は処罰されるべきではないか。一人からそう反論された。暑気払いの場も死刑制度存否で議論が沸いた。議論が錯綜混乱した場面もあった。

帰ってから考えた。この問題は、個人の感情の問題と、人の生き方の問題と、国の制度の問題とを区別して考えるべきだろう。
  個人の感情の問題としては、そんな犯人は許せない。当然死をもってその罪は償われるべきだ。もっとも、犯人が死刑で処刑されたからといって、殺害された者が帰ってくるわけではないが、少しは悔しさは癒される。
  人の生き方の問題としては、身内を殺害した者が罰を受けるのは人の命を奪ったからだ。人を殺害してはならない規範に反して人の命を奪ったからだ。だとすれば、そのような犯人の命をも人は奪うべきではない。死をもって死を償わせるのは怨嗟の連鎖を生むだけだ。戦争が戦争を生むように。それに、人はいずれ死ぬ。その原因がその人の寿命であったり、自然にあるときは死をやむを得ないと受け入れるのに、その原因が他人にあるときだけその他人を恨み命を奪うことに懸命になる。死を受け入れられないから、誰かの責任を追及することで死を受け入れることを避けようとしているだけではないか。
  そして、最後に、犯罪者をどのように処罰すべきかは、国の制度、政策の問題だ。国がその刑罰権を行使するのは社会秩序を維持するためだ。社会秩序を維持するために、その社会においてどのような刑罰を科するのが最も適切か。そのときに、個人の感情に依拠して死刑を選択するか、それとも、あるべき人の社会・倫理に依拠して他人の命を奪った者に対しても死刑を科さずに、生かして・社会から隔離して・更生させるか、それとも第三の観点を盛り込むかは、その国の国民が決めることだ。

このように死刑制度が根本的には国家の刑罰権行使に関わる法制度の問題であって、死刑制度是か非かは、国家制度としての論ずるべきであり、当事者・一国民として犯人に対してどういう感情を持つか、あるいは人として犯罪にどう向き合うかという次元の問題として論じるべきではない。国は死刑制度を維持するために、またマスコミは視聴率をアップさせるために、あえて議論を個人レベルの問題にひきつけがちだが、そのような議論は議論を錯綜させるものにしかすぎないことに注意すべきだ。


投稿者:ゆかわat 17 :37 | ビジネス | コメント(0 )

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